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Comet-S74-17688

コホーテク彗星 1974年

彗星(すいせい)は、太陽系小天体のうち、主になどでできており、太陽に近づいて一時的な大気であるコマや、コマの物質が流出した(テイル)を生じるものを指す。

概要[]

尾が伸びる姿から(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット (comet) と呼ばれる。

彗星と小惑星とは、コマや尾の有無で形態的に区別するため、太陽から遠方にあるうちは、彗星は小惑星と区別がつかない。彗星は、太陽からおおよそ3 AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測されることが多い。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間に当たる。

太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には二度と戻ってこないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。

彗星が太陽に近づいた時に放出された塵は、流星の元となる塵の供給源となっている。彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、不吉なことの前兆と考えられるなど、古くから人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は、古文献などに残っている。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などには未だに不明な点も多く、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、現在でも大きな関心が寄せられ、研究が活発に続けられている。

彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前が付けられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、近年は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。

太陽系の天体の分類
恒星太陽
太陽の
周りを
回る
天体
惑星 地球型惑星
木星型惑星
天王星型惑星
準惑星
小惑星帯にあるもの
ケレスのみ)
冥王星型天体
太陽系
小天体
冥王星型天体以外の
太陽系外縁天体
小惑星
彗星
惑星間塵
太陽以外の
天体の周りを
回る天体
衛星(未定義)
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2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会での決議により、彗星は小惑星とともにsmall solar system bodies (SSSB)のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議2007年4月9日対外報告(第一報告)において、現在使われている「彗星」「小惑星」等の用語との関係については将来的に整理されることを前提とした上で、small solar system bodies の訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。

物理的特徴[]

彗星の本体はと呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に喩えられる。核の平均的な直径は数百m程度で、小さく暗いものでは数十m、非常に大きいものでは稀に50kmほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1km程度の彗星で数十億トン単位、10km程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山一つ分ほどに相当する。氷の構成成分を分子数で見ると、80%以上は水 (H2O) で、以下量の多い順に一酸化炭素 (CO)、二酸化炭素 (CO2)、メタン (CH4) と続き、微量成分としてアンモニア (NH3) やシアン化水素 (HCN) などが含まれる。双眼鏡望遠鏡で見た時に青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできる C2(炭素が2つつながったもの)や CN などのラジカル輝線スペクトルが強いためである[1]

Cometorbit

彗星の運動と尾の方向の関係
太陽に接近すると尾が生じる。イオンの尾はほぼ常に太陽と逆の方向を向いているが、塵の尾は曲線状になる

太陽から遠いところでは、低温のため核は全て凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。蒸発したガスや塵は、非常に大きく、極めて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。

そして、太陽からの放射圧太陽風により、太陽と反対側の方向にが形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)という、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けるためなどの理由がある。歴史上の大彗星の中には何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えたものもある(2007年のマックノート彗星でも見られた)。これに対し、イオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、見かけ上太陽の方向に尾が伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる。しかし、実際に太陽に向かって尾が伸びているわけではない。

コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは時には太陽(直径約139万km)よりも大きくなることがある。また、尾も1天文単位以上の長さになることがある。1996年春に明るくなり、観測史上最も尾が長く伸びた百武彗星では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7000万km)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡が無ければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも十分見えるほどに明るくなる。望遠鏡が発明される以前は、彗星は夜空の何も無いところから現れ、ゆっくりと見えなくなって消えていくように考えられていた。

驚くべきことに、彗星の核は、太陽系に存在する物体の中でも最もい物体である。探査機ジオット1986年にハレー彗星の核に接近し、核の光のアルベド(反射能)が4%であることを発見した。また探査機ディープ・スペース1号2001年ボレリー彗星に接近して観測を行い、核の表面のアルベドが2.4%から3%程度しかないことを発見した。これは、アスファルトの光のアルベドが7%なのと比較するとかなり小さい値である。複雑な有機化合物がこのような暗い表面を構成していると考えられている。太陽によって表面が熱せられると揮発性の化合物が、特に黒っぽい傾向のある長鎖の化合物を残して蒸発して飛び去ってしまい、石炭原油のように黒くなる。彗星の表面が非常に黒いため、熱を吸収して外層のガスが流出する。

1996年、百武彗星の観測から彗星がX線を放射していることが発見された[2]。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星と太陽風との相互作用により生じると考えられている。イオンが急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の原子分子が衝突する。この衝突により、イオンは一つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠紫外線光子の放出につながると考えられている[3]

彗星の崩壊と消失[]

最も早期に発見された周期彗星の一つであるビエラ彗星は1846年の回帰時に二つに分裂し、次の回帰では双子の彗星となって現れたものの、やがて、流星群だけを残して消失した。その後も太陽からの輻射熱や物理的作用により、分裂あるいは崩壊、消失した彗星は、多数観測されている。

彗星のさまざまな様相変化の予想は難しく、彗星核の崩壊や消失に関する理論的な研究はあまりなされていない。しかし、国立天文台福島英雄らの観測・研究グループによれば、近日点通過前の彗星頭部の崩壊前に極めて特異なコマ形状を共通して示していることや、光度観測により色指数(V-I)の変化が特異であることが報告された(2003年春季天文学会)。実際には彗星の頭部がY字やT字型からおむすびのような形に変化してゆき、集光も薄れ消失するのだという。また、この発表では、近年の彗星の中でこのモデルに合致した物としてはC/2002 O6 (SWAN) があげられ、普通の彗星のコマと違い三角形の形状をしているという報告がなされ、また、C/2002 O4 (Hoenig) も同様な消滅過程だと報告された。

太陽への接近を繰り返すうちに徐々に成分が脱落していくが、崩壊・消失に至ることなく小惑星化する場合があり、これを彗星・小惑星遷移天体と呼ぶ。そのような過程を経たと思われる天体や、その過程の途上にある天体もいくつか見つかっている。

軌道による分類[]

テンプレート:彗星の分類 彗星は、太陽を焦点の1つとする楕円放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを、「回帰」という。放物線軌道あるいは双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻って来ないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。これは英語では「single-apparition comets」とも呼ばれる。

ただし、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるので、周期どおりに戻ってくるとはかぎらない。また、後述するとおり、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年以下の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、非周期彗星は長周期彗星に含める。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。

軌道の特徴[]

Oort cloud Sedna orbit

惑星の軌道、カイパーベルト、オールトの雲の位置関係
左上図には内惑星と小惑星帯、オレンジ色の木星軌道が描かれている。右上図には紫色の冥王星軌道とカイパーベルトが見える。左下図にある空色に塗られたオールトの雲はこれらとは比較にならないほど遠方に広がっている。

短周期彗星はエッジワース・カイパーベルトを起源に持つと考えられ、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源はオールトの雲にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録が無い大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手がかりとなると考えられている。

小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の離心率の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、様々な説が提唱されてきた。有名なものとして、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む太陽系外縁天体の軌道が掻き乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、ネメシスという太陽の連星、あるいは未知の惑星Xの存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。

1950年天文学者ヤン・オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万天文単位~10万天文単位(約0.1光年~1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、オールトの雲と呼ばれる、小天体が多く集まる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、時々お互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力に捉えられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。

現在では、彗星はオールトの雲とエッジワース・カイパーベルトに起源をもつと考えられている。いずれも、太陽系形成期に存在した原始惑星系円盤で形成された微惑星または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域である。太陽から3AU以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として木星土星が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、黄道面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。

彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらは木星族土星族天王星族海王星族の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、他の惑星を全て合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし、木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突して生命の進化に悪影響を与えただろう、という説がある(惑星の居住可能性#グッド・ジュピターを参照)

また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほど良く軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし、時折、「新」彗星の過去の軌道を遡ることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、テンペル・スイフト・LINEAR彗星が挙げられる。この彗星は1869年に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、1908年以降見失われていた。しかし、2001年LINEARが偶然発見した「LINEAR彗星」(C/2001 X3) が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった。

彗星の軌道に関する特徴の一つとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角は概ね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また、小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるともみなせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。

しかし、近年では小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が数個発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星との分類の見直しを迫ることになるかもしれない。他にも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽に極めて近いサングレーザーがある。

彗星の明るさとその予測[]

彗星の明るさ、すなわち光度は、恒星と同じように等級を単位として表される。しかし、彗星は恒星と違って核、コマ、尾などの構造があり、それぞれ明るさがあるため、全ての部分を含んだ明るさを全光度、核だけの明るさを核光度と呼び区別する。従って、コマや尾がほとんど発達していない状態の彗星では全光度と核光度は等しく、逆に大きく発達している場合は核光度より全光度のほうが明るくなることになる。彗星には、中心核が特に明るい、すなわち中央集光が強いものも、逆に特に明るい部分がなく非常に拡散しているものもある。

彗星の明るさを測定するには、近くにある恒星と比較する事になる。コマや尾が発達していない恒星状の彗星では、変光星や小惑星の場合と同じように、比例法光階法という方法を用いる。しかし、コマや尾が発達している場合、同じ明るさでも点光源と面光源では明るさが違って見えてくるため、単純に比較する事はできない。このため、わざとピントをずらし、彗星と比較星が同じ大きさに見えるようにしてから明るさを比較するボブロフニコフ法(Bobrovnikoff法、B法)、彗星の明るさを覚えてからピントをずらして基準星が同じ大きさに見えるようにし、明るさを比較するシジウィック法(Sidgwick法、S法)、彗星が均一な明るさに見える程度にピントをずらしてから明るさと大きさを覚え、基準星が同じ大きさに見えるまでぼかしてから覚えた彗星の明るさと比較するモーリス法(Morris法、M法)などの方法が用いられる。核光度も、全光度と同様に測定する。測定された彗星の光度は、観測者の熟練の程度やその日の体調、観測器材の状態、観測状況、基準星の明るさの誤差など、様々な要因により、観測者によって0.5等級以上ばらつく場合がほとんどである。また、CCDカメラなどで写真を撮影し、近くの基準星を用いて専用ソフトで明るさを測定することもできる。肉眼で見た光度(眼視光度)と、写真で測定した光度(写真光度)は数等級ずれることもある。

彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しい。小惑星などの天体は通常、地球までの距離(地心距離)と太陽までの距離(日心距離)の2乗に反比例して明るくなるが、彗星の場合は太陽に近づくと塵やガスが噴出し、コマができたり尾が伸びたりするため、太陽までの距離の5乗から、場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていく。彗星の光度の予測には、一般に以下のような式(光度式)が使用される。

ここで、 m は彗星の光度である。 m0標準光度、または絶対光度と呼ばれ、彗星が太陽からも地球からも1天文単位の距離にある時の明るさを表す。 また、Δ は地心距離、 r は日心距離をそれぞれ天文単位で表したものである。また、 k光度係数と呼ばれる値で、この値が大きいと光度変化は激しくなり、小さいと光度変化は穏やかになる。観測期間が長くなり観測データが多数集まってくると、専用ソフト[4]などを用い、最小二乗法などの方法で標準光度と光度係数を求める事ができる。発見から間も無いなど、観測期間が短くデータも少ない場合は、光度係数を10と仮定して明るさを予測することが一般的である。標準光度は彗星の規模によって大きく違うが、光度係数は5.0から30程度の間に収まるものが大半である。しかし、核が分裂するなどの要因で活動が活発化し急激な増光(アウトバースト)が起こった場合は光度係数が100を越える場合もあるし、アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは、光度係数が大きく負の値を取る場合もある。ある1本の光度式に常によく当てはまる光度変化をする彗星もあるが、活動の規模が途中で変化すれば当てはまる標準光度や光度係数の値も変化する。しかし、いつどのように活動が変化するかを予測することは非常に難しい。何回か回帰している彗星は、以前の記録を基にある程度予測が可能だが、初出現の彗星についてはほぼ不可能である。また初出現の彗星は、しばらく観測しないとどんな光度式が当てはまるのかも分からない。彗星の光度予想が難しいと言われるのはこのような理由による。

彗星の名前と符号[]

彗星の名前[]

彗星の名前は、過去2世紀に渡って、いくつかの異なる慣習に従って決められてきた。系統的な慣習が採用されていなかった時代には、彗星の命名は様々な方法によっていた。ハレー彗星は、彗星の軌道を決定したエドモンド・ハレーの名前から採られた。同じように、2番目の周期彗星として知られているエンケ彗星は、最初の彗星の発見者ピエール・メシャンではなく、軌道を決定した天文学者であるヨハン・フランツ・エンケの名前が付けられている。

18世紀末から20世紀初頭の明るい彗星の中には、3月の大彗星 (Great March comet) などと名づけられたものもある。いくつかは単に大彗星 (Great comet) で区別がつかないので、「1811年の大彗星」(『戦争と平和』に登場する彗星)などとも呼ばれる。

20世紀初頭、彗星の命名として、発見者の名前を付けるという慣習が一般的になった。これは現在まで続いている。彗星にはその彗星を独立発見した人の名前が先着順で3名まで付けられる。1990年代に入ると、人工衛星(IRASSOHOなど)や、国際規模の彗星および小惑星の掃天プロジェクトチーム(LINEARNEATなど)による彗星の発見が相次ぐようになり、数多くの彗星に、これらの自動捜索プロジェクト名が付くようになった。例えば、IRAS・荒貴・オルコック彗星は、赤外線衛星IRASと、日本のアマチュア天文家の荒貴源一イギリスジョージ・オルコックによって、独立、発見された。現在では、自動捜索プロジェクト名でない彗星のほうが少ない。

同じ発見者が複数の彗星を発見しても、名前で区別はされない。だから、たとえば「SOHO彗星」という名前の彗星は1000を超える。彗星を一意的に示すには、後述する符号を使う必要がある。ただし、~第1彗星、~第2彗星、などを末尾につけて区別することもある。

なお、キロンなど少数の彗星が、小惑星として発見され、小惑星の命名規則に基づいて命名された後に彗星であることが判明している。逆に見失われていた彗星が小惑星として再発見された例もあり、彗星としての名前のまま小惑星としても登録されている(彗星・小惑星遷移天体を参照)。

旧方式符号[]

1994年までの彗星の系統的な符号の付け方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる仮符号が与えられた。例えばベネット彗星の仮符号は1969i で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する。彗星の軌道が確定すると、彗星には、近日点通過の年とローマ数字からなる確定符号が与えられた。ベネット彗星の確定符号は1970 II となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも言う。確定符号が付くと、仮符号は使われない。

彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に国際天文学連合は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。

新方式符号[]

符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にして付けられる。例えば、ヘール・ボップ彗星の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。

  1. 最初の「C/」は「Comet」を意味し、発見報告直後の全ての彗星にはこの符号が付けられる。発見報告後の観測により、周期彗星(なお、本節に限り、「周期彗星」を「公転周期200年以下または複数の近日点通過が観測された彗星」と定義する)だと分かった場合、記号は「P/」(Periodic) に変更される。周期彗星でない場合は「C/」のままである。また、消滅した、または、長期間観測されない周期彗星には「D/」、軌道を求めることができなかった彗星には「X/」を付ける。2006年7月現在、「D/」が付いた彗星は24個、「X/」が付いた彗星は54個ある。彗星と思われていた天体が小惑星だと分かった場合は「A/」、衛星だと分かった場合は「S/」を付ける。小惑星として発見された天体が過去の彗星と同定され「A/」がついた例はあるが(ブランペイン彗星)、「S/」に変更された天体はまだ無い。
  2. 「1995」は、発見が報告された年を表す。
  3. 「O」は発見が報告された時期を表す。1月前半(15日まで)が「A」、1月後半(16日から)が「B」、というように、1年を24に分けて表す。ただし、「I」は「J」や「1」と紛らわしいので飛ばし、「Z」は使わない。この規則は、小惑星と共通である。
  4. 「1」は、その時期の中での発見報告順を表す。ヘール・ボップ彗星は、1995年7月後半に発見が報告された最初の彗星であることが分かる。
  5. 彗星が分裂した場合、「-A」、「-B」などが末尾に付けられる。
  6. 2回目の回帰が観測された彗星、または遠日点でも観測できる彗星、あるいは4回のが観測されたケンタウルス族彗星には、「P/」(または「D/」)の前に公式通し番号が付けられる。例えば、スパール彗星が回帰して2005年に再発見されたときの符号は「171P/2005 R3」で、同時に、最初の発見は「P/1998 W1」から「171P/1998 W1」に変更された(再発見には別の符号が付くことに注意)。複数回の発見を区別する必要がないときは、「171P/Spahr」と表現される。2006年11月現在、182P/LONEOS まで番号が付けられている。

1994年以前の彗星にも、新方式符号が遡って付けられる。例えば、前述のベネット彗星の新方式符号は C/1969 Y1 となる。つまり、1994年以前の彗星は、符号が3つあるということになる。

なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)が付けられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字が付けられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された[1]

彗星の記録と信仰[]

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バイユーのタペストリーに描かれたハレー彗星 右上に記号化されたハレー彗星が見える。中世ヨーロッパにおいては彗星 (star with hair, stella crinita) は差し迫った不運を警告するものと捉えられていた。

彗星はしばしば王や高貴な人物の死や、大災害といった不吉なことの前兆と考えられ、昔の人はその出現を恐れた。で卜占を記した甲骨文などの古代の資料からは、人間が彗星の出現に数千年の昔から気づいていたことが分かる。彗星の出現を記録した有名な古記録として、1066年イングランドノルマン・コンクエストを記録した『バイユーのタペストリー』にハレー彗星が描かれていることが挙げられる。

彗星の出現について、信頼できる記録の中で最も古いものは、紀元前240年始皇帝がハレー彗星を見たとする記録である。不確かなものでは、紀元前2320年の古代バビロニアの記録がある。ヨーロッパでは、彗星は気象現象の一種だと考えられていたため古い記録はそう多くないが、中国や日本には多くの記録が残っている。中国では紀元前のハレー彗星の回帰が4回記録されており、日本でも684年のハレー彗星の回帰に関する記述が『日本書紀』にある。

彗星の研究の歴史[]

古代の観察と考察[]

歴史的に、彗星は不吉の象徴とされ、地球の住人に対する天からの攻撃であるとさえ解釈されてきた。『ギルガメシュ叙事詩』、『ヨハネの黙示録』といった権威書は「流れる星」に原因があるとし、『エノク書』では彗星や、ことによると火球に原因を求めた。

アリストテレスは、彼が著した最初の気象学の本『気象学』(Meteorologica)[5]で、彗星に対する、西洋の思想を2000年近くに渡って支配した考えを示した。彼は、彗星は惑星であるか、少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定した。その根拠は、惑星の動く範囲は黄道帯の中に限られるが、彗星は空のあらゆる所から現れるというものであった。その代わり、彼は彗星を大気の上層部で起こる現象だと捉え、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、流星や、オーロラ、そして天の川の原因にさえなっていると考えた。

その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。セネカは、彼の著書『自然研究』(Quaestiones naturales) において、彗星は空を規則的に動き、に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼は他の惑星が黄道帯の外に現れることが無いことを認めつつも、天球上のものに関する人間の知識は限られているので、惑星のような物体が空のあらゆる所に現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは16世紀のことであった。

1577年明るい彗星が現れ、数ヶ月間肉眼で観察できた。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、彗星に測定可能な視差が無いことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。正確な測定をしたところ、その測定結果は、彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示していた。

軌道の研究[]

彗星が宇宙空間にあるということは証明されたが、彗星がどうやって空を移動しているのかという疑問は、その後、数世紀に渡って議論の中心になるように思われた。ヨハネス・ケプラー1609年に、惑星の軌道は楕円軌道であると決着をつけた後でさえ、彼は惑星の運動を支配している法則(ケプラーの法則)が他の天体にも影響を与えていると信じるのを躊躇した。彼は彗星は惑星の間を直線軌道で運行していると信じていた。ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの擁護者であったにも拘らず、ティコによる彗星の視差の測定結果を受け入れず、彗星は地球大気の上層を直線状に動くというアリストテレスの考えを支持し続けた。

ケプラーの惑星の運動の法則が彗星にも適用されるべきだ、と初めて提案したのはウィリアム・ローワーで、1610年のことであった。その後、数十年間、ピエール・プティジョヴァンニ・ボレリアドリアン・オーズーロバート・フック、そしてジョヴァンニ・カッシーニなどを含む他の天文学者たちは、彗星は太陽の周りを曲線状の軌道、楕円軌道か放物線軌道を描いて運行しているという説を唱えたが、その一方、クリスティアーン・ホイヘンスヨハネス・ヘヴェリウスは、彗星は直線運動をしているという説を支持した。

この問題は、1680年11月14日ゴットフリート・キルヒが発見した大彗星 (C/1680 V1) によって解決された。ヨーロッパの至る所で、天文学者たちはこの彗星の位置を観測しつづけた。1687年アイザック・ニュートンは彼の著書『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)において、万有引力逆2乗の法則の影響下で運動する物体は、軌道の形が円錐曲線の一種になるということを証明し、天空における彗星の運動が放物線軌道とどのように適合するかを、1680年の彗星を例にして具体的に説明した。

1705年エドモンド・ハレーは、1337年から1698年までの24個の彗星の出現に対して、ニュートンの手法を応用した。するとハレーは、1531年、1607年、1682年に現れた3つの彗星の軌道要素が、極めて似通っていることに気づいた。しかも、軌道要素の僅かな違いは、木星土星による重力的な摂動によって説明することができた。彼はこの3つの彗星の出現は、同じ彗星が3回出現したものだと確信し、この彗星は1758年か1759年に再び戻ってくるだろうと予言した(ハレー以前に、ロバート・フックが既に1664年に出現した彗星と1618年の彗星を同定し、また同じころカッシーニも1577年、1665年、1680年の彗星は同じものではないかと推測していた。しかしこれらはどちらも間違っていた)。ハレーが予言した彗星の戻ってくる期日は、後に3人のフランス数学者によって改良された。アレクシス・クレロージェローム・ラランドニコル=レーヌ・ルポートである。彼らは彗星の1759年の近日点通過日時を1ヶ月以内の誤差で予言した。彗星は予言どおりに回帰し、その彗星はハレー彗星として知られることとなった(公式な符号は1P/Halley)。ハレー彗星が次に出現するのは2061年のことである。

短い周期を持ち、歴史上の記録に何度も登場するような彗星の中で、ハレー彗星はどの出現でも肉眼で見えるほどの明るさになったという点で独特である。ハレー彗星の出現の周期性が確立して以降、数多くの周期彗星が望遠鏡を使って発見されてきた。2番目に発見された周期彗星はエンケ彗星(公式な符号は2P/Encke)である。1819年から1821年までの期間中、ドイツの数学者・物理学者ヨハン・フランツ・エンケは、1786年、1795年、1805年、1818年に観測された一連の彗星の出現から軌道を計算し、これらは同一の彗星であるという結論を下し、1822年の出現を予言するのに成功した。1900年までに、17個の彗星について1回以上の近日点通過が観測され、周期彗星として確認された。2006年7月までに、176個の彗星について周期彗星としての識別に成功しているが、そのうちのいくつかは消滅したり見失われたりしている。

物理的特徴の研究[]

アイザック・ニュートンは、彗星を固く締まった頑丈な固体だとした。つまり非常に長い楕円軌道を描き、その軌道と方向がかなり自由な惑星の一種であって、その尾は、太陽熱で着火または加熱された頭部、つまり彗星の核から放出された非常に希薄な蒸気だと考えていたのである。 また、ニュートンにとっては彗星は、惑星の水分と湿気を維持するために不可欠なものだと思われた。つまり、彗星の蒸気と放出ガスが凝縮したものから、植物が生まれ腐敗し乾燥した土になるために使われるすべての水分が再供給、補充されるとした。ニュートンは、すべての植物は液体から増え、それが腐敗して土になると考えていたためである。だとすると乾いた土の量は絶えず増加するので、その惑星の水分は絶えず供給されていない限り絶えず減っていき、遂には無くなるはずだと考えたのである。ニュートンは、われわれの空気の最も精妙で最上の部分を構成する、生命と全ての存在に絶対不可欠な精気が、彗星によってもたらされるのではないかと考えた。また、彼の推測によると、彗星は太陽に新しい燃料を補充していて、その発光体から全ての方向に絶えず送られる流れによって太陽の光を回復させているとした。

「巨いなる沸き立つ尾より振るえては
あまたの珠玉に潤いを甦らせる
その長き楕円の風の吹くところ
傾く太陽に新たな燃料を与える
星界を照らすがため天空の火を養う」[2]

18世紀以前に、彗星の物理的構造について正しい仮説を立てていた科学者もいた。1755年イマヌエル・カントは、彗星は揮発性の物質で構成されていて、それが蒸発することが原因で近日点付近で彗星が明るくなるのだという仮説を立てた[3]。1836年には、ドイツの数学者フリードリッヒ・ベッセルが、1835年のハレー彗星の回帰で蒸気の流れを観察したことから、彗星から蒸発した物質の反動は、彗星の軌道に大きな影響を与えるのに十分なほど大きい可能性があると指摘し、エンケ彗星の非重力的な運動はこの仕組みによるという説を唱えた。

しかし、彗星に関連した他の発見により、1世紀近くこれらの説はほとんど忘れ去られていた。1864年から1866年の期間中、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリペルセウス座流星群の軌道を計算し、軌道の類似性から、スウィフト・タットル彗星の破片がペルセウス座流星群の原因であるという仮説を正確に立てた。彗星と流星群との関連は、1872年に劇的に示されることとなった。1846年の回帰で2つに分裂したのが観察され、次の1852年の回帰では現れなかったビエラ彗星を原因とする、激しい流星群の活動が観察されたのである。これを基にして、彗星は表面を覆う氷の層と、緩く堆積した小さな岩石のような物体から構成されているとする、彗星の構成の「砂利の堆積」モデルが現れた。

20世紀半ばまで、このモデルは数々の欠点に悩まされてきた。特に、僅かな氷しか含んでいない物体が、どうやって何回かの近日点通過を経た後も蒸気の蒸発により明るく見え続けることができるのかを説明できなかった。1950年フレッド・ホイップルが、「彗星は氷と塵からなる」という『汚れた雪玉』を提唱した。岩石主体の天体に僅かに氷が混じっているのではなく、氷が主体の天体に塵や岩石が混じっていると言うのである。この「汚れた雪球」モデルはすぐに受け入れられるようになった。

彗星探査機による観測[]

アメリカ航空宇宙局 (NASA) の打ち上げたICE1985年ジャコビニ・ツィナー彗星に接近し、彗星への近接探査を行った最初の探査機となった。翌1986年には、日本の宇宙科学研究所(ISAS)、欧州宇宙機関(ESA)、ソ連・東欧宇宙連合(IKI)が打ち上げた計5機の探査機にICEを加えた6機が連携してハレー彗星の核を観測した(ハレー艦隊)。ジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられ、ホイップルの説が実証された。その後、NASAの工学実験探査機ディープ・スペース1号2001年7月21日ボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴は他の彗星にも同様に当てはまることを立証した。

その後の宇宙飛行ミッションは、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められている。1999年2月7日に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年1月2日にはヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年1月15日には標本を入れたカプセルを地球に持ち帰った。標本の分析により、太陽の近くのような高温下で形成されるカンラン石が発見された。このため、彗星の形成理論の再構築が必要となるかもしれない。

2005年7月4日には、探査機ディープ・インパクトが、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させた。この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分は長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明した。さらに、塵の量が氷よりも多かったことから、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」である、と見られている。

これまでに行われた近接探査[]

  • ICE… (21P) ジャコビニ・ツィナー彗星、(1P) ハレー彗星
  • さきがけすいせいベガ1号ベガ2号… (1P) ハレー彗星
  • ジオット… (1P) ハレー彗星、(26P) グリッグ・シェレルップ彗星
  • ディープ・スペース1号… (19P) ボレリー彗星
  • スターダスト… (81P) ヴィルト第2彗星
  • ディープ・インパクト… (9P) テンペル第1彗星

今後、行われる近接探査[]

  • ディープ・インパクト… (85P) ボーティン彗星
  • スターダスト… (9P) テンペル第1彗星
    • ディープ・インパクト子機の衝突から6年後の変化を観測する予定。
  • ロゼッタ… (67P) チュリュモフ・ゲラシメンコ彗星
    • 2014年に周回軌道に乗り、子機「ファイレ」を表面に着地させる予定。

実現しなかった近接探査[]

  • さきがけ… (21P) ジャコビニ・ツィナー彗星
  • ディープ・スペース1号… (107P/ 4015) ウィルソン・ハリントン彗星
  • コンター… (73P) シュワスマン・ワハマン第3彗星
  • ロゼッタ… (46P) ワータネン彗星

彗星の探索と発見の歴史[]

望遠鏡が無かった時代、彗星の発見は専ら肉眼によるものであった。1608年に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することが出来るようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、コメットハンター(彗星捜索家)と呼ばれる天文家が現れた。最も早い時期のコメットハンターは、シャルル・メシエである。彼は1759年にハレー彗星をヨハン・ゲオルク・パリッチュに遅れること1ヶ月後に発見した。その後彼は1760年から1798年までの間に12個もの彗星を発見した。18世紀末からは、何個もの彗星を発見する天文家が次々と現れ、また、天文学を本業とする天文学者だけではなく、趣味で彗星捜索をするようなアマチュア天文家も多く現れた。

後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。職業的な研究者は厳しい業績評価や研究者間の競争にさらされており、効率的に学術論文を生産する必要に追われている。そのため、確実に発見できるかどうか確証がなく、単に新発見したからといって高い評価を受ける論文作成につながる保証もない彗星、小惑星の探査に時間を割くことが難しかったのである。

しかし、他に職業や生計の途を持ち、趣味として彗星を探査するアマチュア天文家の場合、自分が新発見者になれるという充足感と名誉への期待のみを支えに毎晩のように全天を探査することができた。そのため、彗星や小惑星は多くの場合アマチュア天文家が発見し、また、古典的な力学で十分計算できるため、やはり高い評価を受ける論文作成につながらない軌道計算までも、それを趣味とするアマチュア天文家によって行われた後に、さらに高度な機器を使用できる環境を持った職業的研究者が研究を引き継いで興味深い現象を検出、天文学の発展につなげていくという図式が成立していたのである。

これに似た図式は今日でも昆虫学の分野で成立しており、昆虫採集を趣味とするアマチュア研究家と職業研究者の共生関係が広い裾野をもって成立している分類群ほど、分類学生物地理学的な研究が充実しているという現象が見られる。

彗星を捜索する方法として一般的だったのが、比較的倍率が低く視野の広い双眼鏡で全天を少しずつ捜索していくという方法であった。また、広い写野の得られるシュミットカメラを用いた写真撮影による捜索も広く行われてきた。もちろん中にはただ天体を眺めていたりしていた時に偶然発見された彗星もある。このような彗星の捜索方法は小惑星の捜索方法とも共通点が多いことから、コメットハンターが小惑星を発見した例や、その逆の例も多い。

日本でも、第二次世界大戦以前から何人かのコメットハンターが活動していた。その後、1965年の池谷・関彗星の発見に触発されて数多くのアマチュア天文家が彗星捜索を始め、1960年代から1990年代半ばまでの日本人による彗星発見の黄金時代を築いた。年間に発見された彗星の数割が日本人による発見ということもあった。その他アメリカイギリス、その他ヨーロッパ各国やオーストラリアなどでの発見が多かった。

1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。LINEARNEATなどといった地球近傍小惑星の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、冷却CCDカメラによって18等や20等などといった極めて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星SOHOが観測を始め、その副産物として、クロイツ群に属する彗星が極めて多数発見されるようになった。これらはそのほとんどが、太陽に非常に接近し消滅していく小彗星である。これらの理由が重なり、彗星の発見数は激増した。彗星の年間発見数は1990年代に入ってようやく20個を超えるようになった程度であったが、2004年の年間発見数は217個に達した。そのうちSOHO彗星が169個、自動捜索プロジェクトや天文台などの名前が付いているのが32個、人名が付いているのが11個、人工衛星の名前が付いているのが2個、周期彗星の回帰と分かったのが1個、自動捜索プロジェクトと人名の両方がついているのが1個、未定が1個である。このように、SOHO彗星を除いても人名が付いている彗星は4分の1程度という状況であり、彗星捜索を諦めたコメットハンターもかなり出てきている。しかし、今なお昔と変わらない方法で彗星を発見しているコメットハンターもいる。

このような状況で、インターネット上で彗星捜索をするという、全く新しい方法も現れている。SOHO衛星の撮影した最新の太陽画像はインターネット上に公開されており[6]、その中でもLASCO C2、C3というカメラの画像には太陽の周辺が写されていることから、全くの一般人でも、この画像をチェックしていれば新彗星を発見できるチャンスがある。実際、この画像から既に十数個もの彗星を発見した「コメットハンター」もいる。また、SOHOには他にも、ほぼ全天を撮影しているSWANという観測機器もあり、この画像からも、既に複数のアマチュア天文家が彗星を発見している。このように、彗星の捜索方法は近年大きく変化している。

有名なコメットハンター[]

  • 世界
    • シャルル・メシエ (Charles Messier) - 1760年から1798年までに12個発見。
    • ジャン・ルイ・ポン (Jean-Louis Pons) - ポンスとも。1801年から1827年までに2個の短周期彗星を含め37個発見、史上最高記録。
    • フリードリヒ・ヴィネッケ (Friedrich Winnecke) - ウィネッケ、ウィンネッケとも。1854年から1877年までに2個の短周期彗星を含め12個発見。
    • エルンスト・テンペル (Ernst Tempel) - 1859年から1880年までに4個の短周期彗星を含め21個発見。
    • ルイス・スウィフト (Lewis Swift) - 1862年から1899年までに3個の短周期彗星を含め13個発見。
    • ウィリアム・ブラッドフィールド (William Bradfield) - 1972年から2004年までに18個発見、現役最高記録。
    • ドナルド・マックホルツ (Donald Machholz) - 1978年から2004年までに10個発見。
    • ユージン・シューメーカー(Eugene Merle Shoemaker)とキャロライン・シューメーカー(Carolyn Spellman Shoemaker)夫妻 - 1983年から2002年までに15個の短周期彗星を含め32個発見。小惑星も多数発見。
  • 日本
    • 本田実 - 1940年から1968年までに1個の短周期彗星を含め12個発見。
    • 池谷薫 - 1963年から2002年までに1個の短周期彗星を含め6個発見、特に1965年の池谷・関彗星は有名。
    • 関勉 - 1961年から1970年までに7個発見、特に1965年の池谷・関彗星は有名。
    • 羽根田利夫 - 1978年、69歳の時に手作り観測小屋にて羽根田・カンポス彗星を発見。世界最年長のコメット・ハンターとして話題になった。
    • 宇都宮章吾 - 1997年から2002年までに3個発見、その他名前は付いていないが3個発見。
    • 工藤哲生 - 2002年工藤・藤川彗星を発見。
    • 藤川繁久 - 2002年に工藤・藤川彗星を発見。
    • 木内鶴彦 - 1990年に2個発見、短周期彗星2個の再発見。特にスイフト・タットル彗星の再発見で有名。
    • 百武裕司 - 1995年1996年に2個発見、特に1996年の百武彗星は有名。

自動捜索プロジェクトなど[]

地球近傍天体捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳が無いものもあるのに注意。

  • スペースウォッチ - Spacewatch。アメリカのアリゾナ大学1991年から2005年7月までに短周期彗星1個を含む11個の彗星を発見。
  • 地球近傍小惑星追跡 - Near Earth Asteroid Tracking、NEAT、ニート。アメリカのジェット推進研究所1995年12月から2005年7月までに3個の短周期彗星を含む45個以上の彗星を発見。
  • SOHO - Solar and Heliospheric Observatory、ソーホー。太陽観測衛星。1996年1月から2006年8月までに1000個以上の彗星を発見。
  • ローウェル天文台地球近傍天体捜索 - Lowell Observatory Near-Earth-Object Search、LONEOS、ロネオス。アメリカのローウェル天文台1997年12月から2005年7月までに短周期彗星2個を含む15個の彗星を発見。
  • リンカーン地球近傍小惑星探査 - Lincoln Near-Earth Asteroid Research、LINEAR、リニア。アメリカのリンカーン研究所1998年1月から2005年7月までに7個の短周期彗星を含む150個以上の彗星を発見。
  • カタリナ・スカイサーベイ - Catalina Sky Survey、Catalina、カタリナ。アメリカのアリゾナ大学月惑星研究所1999年から2005年7月までに14個の彗星を発見。
  • バッターズ - Bisei Asteroid Tracking Telescope for Rapid Survey、BATTeRS。岡山県美星スペースガードセンター(日本スペースガード協会)。2001年に1個の彗星を発見。
  • 全天自動捜索システム - All Sky Automated Survey、ASAS、エーザス。チリのラスカンパナス天文台。恒星の光度監視プロジェクト。2004年に1個の彗星を発見。
  • サイディング・スプリングサーベイ - オーストラリアサイディング・スプリング天文台ロバート・マックノート (Robert H. McNaught) が参加している。2006年までに3つの短周期彗星を含む5個の彗星を発見。

大彗星[]

毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星は極めて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心が無い人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく大彗星と呼ばれる。

過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。比較的最近になっても、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。

この当時、既にスペクトル分析によって(先述の通り)彗星の尾には猛毒の青酸が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾鰭がついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本でも、空気が無くなっても大丈夫なようにと、自転車タイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。

その後も、1990年にはオウム真理教麻原彰晃オースチン彗星の地球接近によって天変地異が起ると予言して勢力拡大を図り、1997年ヘール・ボップ彗星の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こした。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。

様々な要素により、彗星の明るさは予言から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予言するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、最も明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし1973年コホーテク彗星は、これら全ての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにも関わらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れたウェスト彗星は、ほとんど期待されていなかった(科学者がコホーテク彗星の予報の大失敗の後、予報をするのに慎重になっていたのかもしれない)が、実際は非常に印象的な大彗星となった。

20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいたころ、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった百武彗星と、1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。 21世紀、初頭から大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見されたNEAT彗星と2002年に発見されたLINEAR彗星である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。

変わった彗星[]

今までに知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から水星の内側にまで入る軌道を回っているし、シュワスマン・ワハマン第1彗星は木星と土星の軌道の間に収まった不安定な軌道を回っている。土星と天王星の間を不安定な軌道で回っているキロンは、最初は小惑星に分類されていたが、後に希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている。同じように、シューメーカー・レヴィ第2彗星は最初は小惑星1990 UL3と呼ばれていた。地球近傍小惑星の中には、揮発成分を使い果たした彗星の核だと考えられているものもある。

また、その他の彗星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。彗星が発見時には小惑星として観測される例が最近になって増えている。なかには、小惑星帯の小惑星として発見されたものが彗星だと判明するケースもあり、これらはメインベルト彗星と呼ばれている。

彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こす事がある。特にホームズ彗星が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり。肉眼でも"明るい星"として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。

今までにいくつもの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。ビエラ彗星が有名な例である。ビエラ彗星は1846年の回帰の際に2つに分裂した。1852年には2つに分裂した核が回帰してきたのが観測されたが、その後2度と出現しなかった。ビエラ彗星の核は恐らく粉々に砕けてしまったのだろう。その代わり、本来彗星が回帰するはずであった1872年1885年に、1時間当たりの出現数が数万個にも達する壮大な流星雨が観測された。この流星群はアンドロメダ座流星群と呼ばれ、毎年11月5日前後に地球がビエラ彗星の軌道に突入するために起こる。現在ではほとんど出現はないが、稀に突発的な1時間当たり数十個の出現が観測されることがある。

崩壊・消滅した彗星としては他にシューメーカー・レヴィ第9彗星が有名である。この彗星は1993年に、木星の周りを回る軌道をとっているのを発見された。その後計算すると、1992年に木星に非常に接近したために捕らえられたのだと分かった。この接近で既に彗星の核は分裂し、少なくとも21個の破片に分かれていた。そして分裂した核は1994年7月16日から7月22日までに、相次いで木星の大気に突入した。人類が地球の大気圏外で2つの物体が衝突するのを観測したのはこれが初めてであった。

1908年ツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。

最近のケースでは、シュワスマン・ワハマン第3彗星1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。

有名な彗星・明るくなった彗星[]

周期彗星[]

  • ハレー彗星 - 周期彗星第1番。周期約76年。
  • エンケ彗星 - 周期彗星第2番。周期約3.3年で、周期彗星中最短。
  • 池谷・張彗星 - 周期彗星第153番。周期約366年で、周期彗星中最長。
  • シューメーカー・レビー第9彗星 - 1994年に木星に激突し、消滅。

非周期彗星[]

  • ドナティ彗星 - 1858年秋に明るくなり、尾が3本に分かれてみえ、世界中で観測された。
  • テバット彗星 - 幅広い尾が発達し、1861年の大彗星とも呼ばれた。日本にも記録が残っている。
  • 池谷・関彗星 - 1965年秋に明け方で長い尾が見られ、また太陽最接近時には-17等級に達した。
  • ベネット彗星 - 1970年3月に近日点を通過し、核が非常に明るく明け方の空で-3等級に達した。
  • コホーテク彗星 - 1974年初頭にマイナス等級になると期待されたが、地上からでは3等止まりだった。
  • ウェスト彗星 - 1976年3月の明け方に見え、核が分裂したため尾が非常に明るくなった。
  • IRAS・荒貴・オルコック彗星 - 1983年5月に、地球から0.0312天文単位の至近距離を通過した。
  • 百武彗星 - 1996年3月に地球に0.102天文単位まで接近、0等になり尾が60度以上に伸びた。
  • ヘール・ボップ彗星 - 1997年4月に-1等に達し、3等級以上だった時期が5ヶ月間もあった。
  • マックノート彗星 - 2007年1月に近日点通過。日本では西の空低かったためにすぐに見えなくなったがオーストラリア方面で世紀の大彗星となって現れた。-4等星にまでなり昼間でも肉眼で確認できたという。

フィクションの中の彗星[]

彗星はSF作家や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「ハレー彗星」のページを参照。

  • ジュール・ヴェルヌの『彗星飛行』(1877年)は、手ごろな彗星によって太陽系を旅行する、ビクトリア朝時代の想像による小説である。
  • H・G・ウェルズの『彗星時代』(1905年)は、彗星の尾の蒸気がどのようにして世界中にユートピアのような社会を作り出すかを描いた物語である。
  • トーベ・ヤンソンの『ムーミン谷の彗星』は、ムーミンの世界が燃えるような彗星に驚く様子を描写している。
  • アーサー・C・クラークの小説『2061年宇宙の旅』は、ハレー彗星への有人ミッションの物語が詳しく書かれている。
  • グレゴリー・ベンフォードデイヴィッド・ブリンの合作小説『彗星の核へ』(1987年)の中では、多国籍のチームがハレー彗星に氷で作られた居住地(スペースコロニー)を作って居住する。
  • 笹本祐一の『星のパイロット2 彗星狩り』では、彗星を地球の衛星軌道に乗せて宇宙開発に必要な水資源を確保しようという計画と、その主導権を賭けて彗星への到達を競う宇宙船レースが描かれる。
  • 野尻抱介の『クレギオンシリーズ アンクスの海賊』では、木星型惑星が形成されなかったために太陽系よりはるかに多数の彗星が存在する星系を舞台に、零細(恒星間宇宙船1隻)運送業者の冒険が描かれる。

また、彗星や小惑星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する(架空の天変地異一覧も参照)。

  • 小説
    • カミーユ・フラマリオン『此世は如何にして終わるか』
    • ラリー・ニーヴンジェリー・パーネルの合作『悪魔のハンマー
    • グレゴリー・ベンフォードウィリアム・ロツラーの合作『シヴァ神降臨
    • ビル・ネイピアの『天空の劫罰
    • アーサー・C・クラークの『神の鉄槌
    • 岩倉政治の『空気がなくなる日
  • 映画
    • メテオ
    • アステロイド
    • ディープ・インパクト
    • アルマゲドン
    • 妖星ゴラス
  • アニメ・特撮など
    • スーパーマン』(アニメ、「磁気望遠鏡」)
    • ストラトス・フォー
    • タイムパトロール隊オタスケマン』(最終回)
    • ウルトラマン』第25話「怪彗星ツイフォン」
    • ウルトラマンA』第7話「怪獣対超獣対宇宙人」、第8話「太陽の命・エースの命」
    • ウルトラマンメビウス』第16話「宇宙の剣豪」
    • 暴れん坊将軍IX』の「江戸壊滅の危機!すい星激突の恐怖」

脚注[]

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  1. Comet Names and Designations; Comet Naming and Nomenclature; Names of Comets2000年版・第3段落
  2. ジェームズ・トムソン『四季』(1730年)
  3. カール・セーガン / アン・ドルーヤン『ハレー彗星』(1985年)

関連項目[]

ウィキメディア・コモンズ
日本国内の研究会・グループ
  • 彗星夏の学校
  • 彗星会議


外部リンク[]

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