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八重山地震(やえやまじしん)とは、1771年4月24日明和8年3月10日)に発生した大地震大津波により先島諸島(特に宮古諸島)が大きな被害を受けた。そのため、年号を取って明和の大津波とも呼ばれる。

概要 編集

震源八重山列島近海、深さは不明。地震の規模を示すマグニチュードは7.4とされるが、あくまで推定であり、根拠は不明な点が多い[1]フィリピン海プレートユーラシアプレートの下に沈み込むために生ずる、歪みがもとで発生した海溝型地震と考えられている。これほどの津波が起きた原因については、海底で地すべりが起こったという説が最も有力であるが、地すべりの地点は現在でも特定されていない。

これに対して琉球大学理学部の中村衛は、石垣島と多良間島の中間に位置する正断層(仮称:石垣島東断層)の活動により地震および津波が起こったと推測し[1]、シミュレーションの結果から、中村はマグニチュードを7.5と見積もっていたが、更なるシミュレーションの結果、琉球海溝内の断層の活動により、深さ6km、M8程度の津波地震が起こった可能性が高いとしている[2]

被害 編集

地震動による被害はなかったとされている。しかし、地震により大津波が発生し、宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約12,000人・家屋流失2000戸以上という惨事になった。また耕作可能地の多くが塩害の影響を受けてしまい、農作物の生産が低迷。明治時代初頭の人口は地震前の1/3程度にまで減少した。

石垣島での津波の最大波高は40メートル、最大遡上高は80メートルとも言われている。また、多良間島の津波の遡上高は18メートル程度と推定されている[3]宮古島北西にある下地島など地域の島の高台には、津波で打ち上げられたと伝えられている帯岩などの巨石(津波石)が残る。島が一つ津波に飲み込まれて消えた、という伝承があるが真偽は不明。

伝説 編集

石垣島白保村ではこの大地震に関する伝説がある。ある日白保の漁師達が漁で人魚を捕獲してしまい、その人魚を放すお礼に人魚が大津波が来ることを教えた。村の中ではこの情報が確かなものか議論するが、結局信じる人々は於茂登岳に避難し、信じない人々は村に残ると言う決断を下す。そして津波は起こり、村は津波に飲み込まれてしまう。生き残った人々で白保村を再興、現在に至ると伝えられる。

脚注 編集

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  1. 1.0 1.1 1771年八重山地震津波(明和の大津波)琉球大学理学部 中村衛研究室
  2. 1771年明和津波(八重山地震津波)はマグニチュード8の海溝型巨大地震であった琉球大学理学部 中村衛研究室
  3. 沖縄県多良間島での八重山地震津波(1771)の挙動日本地質学会学術大会講演要旨 Vol.95(19880402) p. 127
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